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2015年10月

2015年10月29日 (木)

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デイサービスで収穫したサツマイモが

通所者一人一人に配分されました。

絶不作の筈でしたが、750gもあり、

ダンボとテルテルが頂くのに充分です

(テルテルが首絞められるような歓喜の声を出す大好物)

入れてあったエコ紙袋が手作りで粋でした。


芋といえば、

他に「サトイモ」「ジャガイモ」「ナガイモ」「ヤマノイモ」・・・

と、まだまだあるのに、真っ先にサツマイモが浮かびます。

そんなイモの代表選手にしては冷遇されていませんか?

若もの言葉「キモい」は「イモ」由来の気がします。

昔から

田舎者の野暮ったい男を「芋助」

阿呆な坊主を「芋掘り坊主」

どんぐさくて垢ぬけしない武士は「芋侍」などと

ネガティブに使われたイモ!

これはサツマイモじゃありませんか?



そんなことはいいんです。

本日蒸かしイモにして、テルテルと食べました。

「大層美味しゅうございました。」

テルテルは鼻鳴らし丸呑みし感想は聞けませんでした。

2015年10月26日 (月)

十三夜

先月28日の月は格別でしたが

写真に撮ると明るすぎて平板になってしまいます。

(写真の腕前は一応おいといて・・・)

満月ばかりが月じゃなしヨイヨイ

と昨日、十三夜の月に吸いこまれました。

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光り輝くボタンでなく、

チョットいびつで模様の浮き出た球体、

親しみやすいお月さまでした。

ドアップで身近に思えます。



同じ丸いものでも

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こっちの方は、餌を狙って虎視眈眈でござる。


※長いお休みにはそれなりの訳があり、

今夜家に来たmayaさんに云いました。

「一億総活動」のスローガンを見て、ダンボの思考回路が狂ったんや!

ダンボは、一億総○○とかに戦争がらみのイヤな思い出あってねぇ

「進め一億火の玉だ!」「一億国民総武装」「一億一心銃とる心」

戦争終わったら、戦争責任者のエライさんが「一億総懺悔」などとぬかすから

トラウマになって当たり前やろ? 吐き気するような言葉使うなよ!

2015年10月24日 (土)

日記抜粋

Keiさんから電話がありました。
「あんまりブログが抜けてるので・・・」
申し訳ない。m(_ _)m

見たら、13日から10日もたっていました。
ただでさえ、短期記憶が落ちているので、その間に何があったか分かりませ〜ん。

苦し紛れに日記から、事件をピックアップしてお茶を濁します。

15日 デパスを2錠飲んだ効果てきめん! ぐっすり6時間寝て、昼寝もしてしまう。

16日 見当識異常、と気づくのだから認知症ではない。が・・・
木曜日と思い込みゴミ出し忘れ、ヘルパーさん訪問も携帯の予告アラームで知り慌てた。

18日 食生活が支離滅裂。主食として「ご飯」「パン」「蕎麦」だけど、おかずがストック食材の断捨 離。

19日 昨夜から泊まっている三女とテルテルの散歩、影が長い

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落ち葉で遊ぶ、

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スズカケの葉はでかい。

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20日 DSでサツマイモ掘り体験。今年は凶作! 3人組で掘ったがダンボだけが複数掘り当てた。
二人は小指ほどのが1本ずつ。


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22日 やっと、見応えのありそうなTVドラマが始まった。
「遺産争続」キャストも凄いが、脚本が「井上由美子」期待できます。

2015年10月13日 (火)

遺作

「bon君の遺作展を京都寺町の画廊で開きます」

奥さんからの案内状を頂きました。

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長女と出かけたのが先月26日

会場には

同窓生が4人集まっていました。

bon君の奥さんとお嬢さんに対面しました、初対面にもかかわらず

お話しがはずみます。

bon君の差し金でしょう。

作品は小品ばかりでしたが

bon君の努力の跡が偲ばれ、技術の進歩は目を見張ります。

もっともっと生きて描きたかっただろうな!と口惜しくなりました。

ダンボの望みは、『一点でも譲って欲しい。』でした。

その気持通じたのか

奥さんから「好きな画を貰っていただきたいのですが・・・」と切りだされ、

二つ返事で「ごっそさんです。」

ヤッタ!私の中で彼が呼吸を始めました。

私の死後は、長女が譲り受けると申し出たので

彼の記憶は長生きします。


送られてきた遺作「沈黙の狭間
シリーズ」は、

玄関の壁を飾りました。

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我が家を訪れる人の目に触れ、

語り継がれる運命となりました。

bon、巷にもレジェンドは存在するぞ!

2015年10月 8日 (木)

絵手紙

回覧板で、10月の「ふれあいサロン(自治会の福祉部主催)」が
『絵手紙作り』と、あったので申し込みました。

ニア閉じこもりのダンボを動かした訳は

※絵手紙を今迄描いたことがない。
※講師がピピちゃんのお父さんである。
※時間帯に無理がない。(テルテルの暮らしに支障なし)
※何も用意しなくても良い。

ざっと、こんな理由ですが、初体験が最も重いでしょう。
ダンボ、好奇心を全てかなぐり捨ててはいませんでした。

で、
本日、体験してまいりました。
ピピちゃんのお父さんの教え方は、分かりやすく手慣れたもの、

絵手紙は
「下手でもいい、下手がいい」が基本だそうですが、
これが、次のような縛りのせいで難しいのです。

筆の穂先きから一番遠くを指二本で持つ
筆を垂直に保ち、蝸牛の速さで絵描く。

ダンボ用に講師が持参されたパグ人形で1枚、小さい南瓜とゴーヤでもう1枚


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完成品を見たら、自分には描けないものばかりです。
己れのチマチマ纏めようとしている作品に嫌気がさしました。

初めてだから仕方がないか⁉️

市社協のバックアップで、
道具も材料も準備や後片付けまでして貰い、
ロールケーキとコーヒーまでサービスしてもらえたから出来た「絵手紙作り?」

だったら、再挑戦はダンボの心掛け次第ですね〜

2015年10月 7日 (水)

好日

全国同じでないのは重々承知していますが、
好日とは今日のような日しかないと思います。

散歩の途中に全天が見渡せる場所があり、足が止まりました。
地平近くに綿埃みたいなひとつまみの雲があるだけです。


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テルテルを連れているのを忘れました。

事あるごとに外に出て見上げました。
雲量ゼロの空が広がっています。

出不精のダンボ、好天に促され銀行にも行きました。

午後5時前の散歩では、朝と同じ場所に行くのが楽しみでした。
期待通りの空でした。


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「上を向いて歩こう」を歌うだけでなく、
態度で示そうと思います。
転けないように!

・・・・・身体はガタがきていますが・・・・・

2015年10月 5日 (月)

文集の原稿 おわり

天皇陛下のラジオ放送は、

雑音が多く内容も難しくハッキリしません。

でも、日本が負けて戦争が終わったと、雰囲気で察しがつきました。

 

「家に帰れる」「家族に会える」

その瞬間、身体の奥から沸々と湧き出した嬉しさは、生涯で味わった最高のものでした。

 

周りが拳を握りしめ、涙を溜め、歯を食いしばり悲壮な顔つきだったので、笑みをこぼさないよう苦労しました。

 

 中学校三年で親に黙って予科練を志願した愛国者、

バリバリの軍国少年だった私も、己の命を守りたい本能には勝てませんでした。 

思えば、戦後様々な場面で、この「生き残り体験」が影響したと思います。

「こんな事では死んだ人達に申し訳ない」

「あの時死んだと思えば、今のピンチなどなんでもない」

 

 

 七十年間も戦争に駆り立てられることのなかった日本。

誰も戦で命をおとさない平和な国であり続けてほしいと切に願います。

                           おわり

 

2015年10月 4日 (日)

文集の原稿 つづき

 

私達が暮らす兵舎の海側は高い塀で遮られていました、

  

 そこには人間魚雷「回天」の基地がありました。

 

 特攻出撃するのは前の晩にわかりました、 

 

塀を貫いて響いてくる大声や物を壊す音、 

 今生の別れを惜しみ、酒宴で爆発させているのが痛ましく想像できました。
 

翌朝、塀の切れ目から見送りました。 

潜水艦が、弾頭を真っ赤に塗った「回天」を積み出港します、 

 「回天」の脇に立ち、いつまでも敬礼した手を下さず去って行った特攻隊員の姿は、

七十年たっても忘れられるものではありません。 

 

 7月になると、訓練そっちのけで裏山にトンネルを掘り、本土決戦に備えるのが日課となりました。 

 休憩は松林に身を隠し、箱庭より美しい瀬戸内の海を眺め、のどかな気分に浸りました、 

 でもそれは、ほんのひと時です。 

 制空権を奪われた日本の空を飛ぶのは敵機ばかりです。   

 島影から何機もグラマン艦上戦闘機が現れ、つばめのように飛び回ります、 

 獲物を見つけたら容赦なく機銃掃射を浴びせました。 

 兵舎へ帰る道端に遺体が幾つも転がっていました、 

 人間の身体と判別できないほど酷い傷つきかたでした。 

 私達は黙々と横を通り過ぎました。 

 今になって怖ろしいのは、 

 その時の私が、 

 遺体を目にして『何も感じなかった!』ことです。 

 戦争は「人」を「人でなし」にする舞台だと思います。               つづく

2015年10月 3日 (土)

文集の原稿

※老人会の文集に寄稿したものです。

「70年たって思うこと」 

昭和20年8月15日、

私は山口県柳井にあった「海軍潜水学校」で、特殊潜航艇「蛟竜」の乗員として訓練を受けていました。

その前は、鳥取県「美保海軍航空隊」で、海軍飛行予科練習生(予科練)の教程を終えていました。

普通は航空隊に配属され、飛行兵になる筈だったのに、特攻を志願して空から海への転進でした。

当時の日本には訓練用も実戦用も使える飛行機がほとんどなかったからです。



潜水学校での4ヶ月間、よい思い出がありません。

まだ子供の面影を残している私達練習生を古参の兵達は「消耗品」と呼んでからかいました。

「日本に連合艦隊なんて、もうないぞ!」

大本営発表にない真実を、海戦生き残りの猛者が教えてくれました。

食事は悪くなる一方です、

来る日も来る日も、清ましの「根深汁」

好き嫌いのなかった私が、戦後長い間ネギを見たら吐き気がして口に入りませんでした。

真実を書いて美保空の友人に送った手紙がもとで(検閲されていた)

同期の練習生から理不尽なリンチを受けました。  

                                  つづく

 

2015年10月 2日 (金)

実りの行方

我が家と西側の団地とは、大層な高低差があり、

石垣の上に広い法面(のりめん)があります。

そこに生えている「栗の樹」と「ザクロの木」

秋ですから、食べて下さいとばかり実をつけます。

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公有地ですから、原則的には公のものでしょう?

でも、市は何もしないし、

毎年、近所の人が盗って採っていきます。

何時も何時もダンボは指をくわえて傍観!

街路樹や公園のイチョウになったギンナンを拾うのと

同じ気持ちになればいいのに、(拾ったことはありませんが・・・)

第一に、

「立ち入り禁止」の立看板をすり抜け

足場の悪い法面を何十メートルも歩かねば採れません。

アウトローを自認しているダンボもためらいます。

栗は落ちるはしから無くなるようですが

ザクロは何時までも残って人気がありません。

食べられる部分はほんの僅かだけれど、

オヤツのなかった時代に

ガキ連と味わった甘酸っぱさを思い出すだけにしています。

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